浦上宗景 - うらかみしげむね

浦上宗景について

生年-没年 不明

浦上宗景(うらかみむねかげ)は、浦上村宗の二男として三石城で誕生したとされている。

村宗が戦死後、家督は兄の政宗が幼少にして相続した。 備前侵攻を図る尼子晴久への対応を巡って政宗と意見が分かれ、宗景は1554年ごろ天神山城に旗揚げし浦上氏は分裂する。

1563年、政宗と和睦。翌年、政宗と嫡男の清宗が赤松政秀に殺害され、浦上誠宗が後を継ぐ。
1567年、宗景は誠宗を暗殺し実質的な浦上家の棟梁になる。
1573年には、織田信長から備前・播磨・美作3カ国の朱印状を与えられ3カ国の支配権を認められ、浦上氏は宗景の代で隆盛の頂点を見る。

しかし、この朱印状が宗景の思わぬところで各氏の反感を買い、それを見逃さない家臣・宇喜多直家による再三の反旗を受けるなどして天神山城は落とされた。下克上で三ヶ国の支配者となったが、下克上で追われることとなった。

晩年は定かでないが、伝承によると筑前福岡藩・黒田氏に保護されて一緒に九州筑前に下り、出家して同地で七十〜八十余歳で病死したとされる。宗景の末子に、浦上成宗がいる。

関連資料

戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力 戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力

『戦国期赤松氏の研究』をはじめ、『中世後期の赤松氏』『中世後期山名氏の研究』を刊行してきた著者が、同じ赤松氏領国の浦上氏・宇喜多氏についての論考をまとめ、併せて美作国の江見・後藤・新免氏などの領主の存在形態を分析し、地域権力のありようを明らかにする。
これにより、備前・美作両国に存在する領主の性格を解明する。

【主要目次】
序 章 研究の現状と課題
第1部 浦上氏・宇喜多氏の権力構造
 第1章 備前国浦上政宗に関する一考察
 第2章 備前国浦上宗景の権力構造
 第3章 豊臣期宇喜多氏検地再考
 第4章 豊臣期備前国の都市と経済
 第5章 戦国織豊期宇喜多氏の領国支配について
 −家臣団編成を中心にして−
  付論 戦国織豊期の備前国鳥取荘
  付論 「難波文書」年未詳10月13日浦上村国書状の年紀
第2部 戦国織豊期における美作国の地域権力
 第1章 美作国江見氏の基礎的研究
 第2章 美作国後藤氏の権力構造
 第3章 美作国新免氏に関する一考察
 第4章 戦国期美作国における領主層の特質
 第5章 『新訂 作陽誌』所収 赤松晴政(性熈)発給文書の検討
 第6章 中近世の美作地域における神楽
  付論 「豊楽寺文書」所収 某祐定寄進状をめぐって/美作国田邑荘・二宮荘と立石氏
終 章 結論と今後の課題


直原系
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